畏友鷲見洋一氏(慶應義塾大学名誉教授)がライフワークの一つとした『編集者ディドロー仲間と歩く「百科全書」の森』が完成し、この4月に平凡社から出版された。
後書きをみると、従来の「だ、である」調を捨てた理由について綿々と綴っている。まるで鷲見氏自身がディドロになっているような錯覚さえ覚える。それこそ啓蒙主義の原点かも知れない。
仏文学者ならパリのソルボンヌに留学する研究者が多いが、鷲見氏はモンペリエ大学で博士号を得て帰国、慶應の藝文学会に姿を現した時、彼はディドロの小説『ラモーの甥』について個人主義の観点から発表した。拙い司会役を務めていた私が驚いたのは、彼が黒板を一杯に使って、この言葉の原義から説き起こしたことだった。制限時間を気にした私が割って入ろうとすると、先輩教授が私を押し留めた。
さて、本書の狙いは、『百科全書』の沿革に始まり、ディドロの生涯から、膨大な編集作業の現場を再現し、編集仲間たちとの思想共有について論じた後、現代では常識だろうが、図版のもつ重要性を明るみに出すことだった。帯に記された「身体知」としての『百科全書』の世界というキャッチフレーズそのままに、博引旁証の知の森を見事に展開させている。後書きには多くの協力者への謝辞があるが、それこそディドロ的世界なのだろう。
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