書物史講座 キャクストン版『カンタベリー物語』第3回

チョーサーはカンタベリー巡礼の一人に選んだバースの女房に、過去に結婚した5人の夫が彼女の旺盛な精力に勝てずに死んでしまう顛末を物語の序文で赤裸々に語らせ、経験主義の重要性を扱う。彼女がその実例として挙げた物語では、結婚生活で男女いずれが主権を持つべきかをガウェインを主人公とするロマンスを通して語らせる。

Chaucer makes the Wife of Bath, a formidable feminist, disclose her own theory told on her own experiences through her five marriages, and choose the Arthurian romance on Sir Gawain in order to discuss whether the man or his wife should have sovereignty in their marriage.

00:26 バースの女房の結婚の議論

一つ、さっきのThe Wife of Bathのところを読みますかね。

The Wife of Bathの物語というのは結婚において男女がどちらが主権を取るとうまくいくのか、その議論。結婚に関する議論を扱った物語のグループの1つでありました。

The Wife of Bathは経験主義なんですね。要するに何でもかんでも、結婚ってのはどういうものか、やってみれば分かるよ。今まで自分は5人の夫と結婚したけれど、みんな死んでしまった。これから先、6人目だって私はOKだよ。

そういう極めて強い女性として登場します。ですからThe Wife of Bathはフェミニストたちには非常に受けの良い人物です。

01:24 バースの女房のプロローグ

この人物がプロローグで、みんな集まっているところでいう言葉がなかなか面白いですよ。
ちょっとMiddle Englishを読んでみましょうか

Chaucer, Canterbury Tales, [Westminster: Caxton, 1483], imperfect copy, with an 18th century bookplate of Henry Bonham, De Ricci, 23.

Experience though none auctorite
Were in thys world is right ynow for me
To speke of woo that is in mariage
But lordis syn I twelue yere was of age
Thankyd be God that is eternal alyue
Husbondis at the chyrche dore haue I had fyue

すべて経験というものが、私にその結婚の中において、
災いというのがあるということを私に教えてくれました。
なぜかというと、私が12歳からこのかた全て、
教会の扉のところで5人の夫と結婚をいたしました

と言った始まり。非常にはっきりとモノを言う女性なんですよね。
初めて結婚したのが12歳なんですって。昔はこのぐらいから、要するに女になった途端に嫁に出されてしまうんでしょうね。

それからここで面白いことを言っているのは、教会の扉のところで5人の夫と結ばれたと書いてある。 church door。これでその当時の習慣というのが分かるわけです。
おそらく普段は開かない教会の扉が開いてそこで祝福してもらえるという、そういう1つのパターンをここでは示唆しているんでしょう。

02:58 PrologueとTale

そしてTaleの方は何か、The Wife of Bath。そうなんです。The Canterbury Talesの物語というのは、物語を語ろうとする人による、まずプロローグというのがある。前置き。

それからその後本当に言いたいことを物語で説明する。ですから、最初のところの実例としてTaleが出てきます。というふうにお考えになるといいかと思います。

03:28 ガウェインとバースの女房の物語

The Wife of BathのTaleというのは何かというと、これはかなりその当時知られていたガウェインに関するロマンス、アーサー王ロマンスからとってきているんですね。

ただし、非常にうまいことに、チョーサーはここで主人公はガウェインだ、ということは言わない。どういうふうに始まるかというと、こうですね。

Chaucer, Canterbury Tales, [Westminster: Caxton, 1483], imperfect copy, with an 18th century bookplate of Henry Bonham, De Ricci, 23.

Here begynnyth the Wyf of Bathe’s Tale

In olde dayes of kyng Artur
Of whyche brytons speke grete honour
Al was thys lond fulfylled of fayrye
The elf quene wyth her joly companye
Daunced ful ofte in meny a grene mede
Thys was the olde oppynyon as I rede
I speke of many an hundryd yeris agoo
But now can no man see none elphys mo
For now the grete charyte and prayers
Of lymytours and othyr holy freris
That serchen euery lond and euery streme
As thycke as motis in the sonne beem
Blyssyng hallis chambris ketchens and bowris
Cytees borughs castellis and hygh touris
Thorpis bernys shepens and deyryes
Thys makyth that ther be no feyries
For there as wont was to walke an elf
There walkyth now the lymytour hym self
In vndermelis and in mornyngis
And sayth hys matyns and hys holy thyngis
As he goth forth in hys lymytacion
Wommen may now go sauely vp and doun
Under euery bussh and vnder euery tre
There is none other incubus but he
And he ne wold do hem ony dyshonour
And so befyl that thys kyng Artour
Hadde in hys hous a lusty bacheler
That on a day come rydynge fro the ryuere

と言ってガウェインが登場する。

ブリトン人がかくも 大いなる名誉をもって褒めそやす アーサーの古い時代
すべてのこの国は fairy(妖精)で満杯だった
というのも、妖精の女王が 自分の愉快な仲間たちと
どこへ行っても 緑の芝生(あるいは牧場)でダンスを踊っていた
しかし これは私が読んでいる古い話であって、何百年も前のことなんですよ
だけど 今や誰もElf(妖精)の姿なんか見ることができません
何故かというと ありがたいチャリティーとお説教によって
これは修道士とか それから托鉢僧などがたくさんいて
そんなことが悪いことしようとしたってできませんからね

というそういうことを言いながら、実は、と、非常に諧謔に満ちた始まりをしてるわけですね。
これなんかも非常に面白い例だと思います。
私はこの部分は確か学部4年生に対して克明に説明した覚えがあります。

The Canterbury Tales、これは今もですね、現代語で英語で読んでも面白いし、それから日本語でお読みになっても非常に面白いものですよね。

ぜひお読みいただければ幸いだと思います。どうもありがとうございました。

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